先ごろの市町村合併で日置市となりその中心となった旧伊集院町に鎮座する
徳重神社です。御祭神は島津家十七代当主「島津義弘公(維新公)です。
鹿児島県姶良郡加治木町の「精矛神社」(くわしほこじんしゃ)と同じ御祭神です。
 鹿児島県の地元住民であれば知らない人はいない「妙円寺詣り」(みょうえんじまいり)の舞台となる神社であり、義弘公は地元鹿児島の英雄であります。
 郷土行事として、関が原の戦いの始まった旧暦9月15日(現10月第四日曜日)に県下あげての一大イベントとなっています。規模自体はあまり大きいものではありませんがその歴史は古く鹿児島でも指折りの伝統行事です。
 取材日は10月初旬の日曜日であり、そのイベント準備の為、地元崇敬者の方々が
社域内の整備をされていました。関が原の合戦をシュチエーションにした登旗の飾り付けがなされていました。地元崇敬者はもとより維新の英雄「西郷」「大久保」よりもさらに深い鹿児島県人の心のよりどころです。


 御鎮座地の旧伊集院町その名が示すとおり島津家重鎮「伊集院氏」の代々の所領でありました。




 関が原の合戦で東西に分かれましたが、その主な武将の幡(はた)が。

 御拝殿です。廃仏希釈以降、妙円寺跡地に御鎮座されました。御神体は義弘公の木造です。


社域内は広く整然としています。市民の憩いの場でもあります。
奉納の灯篭や鳥居の数々をみると鹿児島県人の厚い信仰がしのばれます。





 






 冒頭でもお話しましたがこの「徳重神社」を中心に行われる鹿児島の伝統行事「妙円寺詣り」は鹿児島県民なら知らないものがいないほどの有名なイベントです。
地元妙円寺詣り実行委員会「妙円寺詣りフェスタ」によると               

  妙円寺詣りは鹿児島の三大行事の一つ。
  天下分け目の関が原合戦において
 僅か千名の兵力で西軍に参加し勇敢奮闘空しく破れ敵陣を退くに当たって
 背を向けてはならじと勇敢果敢に敵陣を正面から中央突破して薩摩に生還した
 義弘公没後、鹿児島の城下侍達が遺徳を慕い関が原の苦闘をしのび
 菩提寺である妙円寺(現在の徳重神社)に鎧姿で歩いて参拝し志気を鼓舞し
 心身を鍛錬するもので今も受け継がれています。  
  時代は変わっても質実剛健の気風を継承する 妙円寺詣りは
 わが郷土鹿児島の素晴らしい伝統行事です
   いつもは静かな町、伊集院町が一番賑わう時でもです。

     「妙円寺詣りの歌」を歌いながら鹿児島市内県内各地から歩いて参拝します。

                    明くれど閉ざす   雲暗く
                   すすきかるかるかや そよがせて
                   嵐はさっと   吹き渡り
                   万馬いななく  声高し

 私は鹿児島市内の高校を出ていますが当時は学校行事の一環として毎年この10月末になると夜間行軍で参加しました。いまから考えると深夜に歌を歌いながらぞろぞろと歩くのは道中のお宅にとっては非常に迷惑であったに違いないのですがそこは郷土の伝統行事、大目に見てくれていたのでしょう。夜間であるという事や鹿児島市内から数十キロの道のりなど心身ともに疲れる行事でしたがいま思うと懐かしい思い出となっております。





 

  作詞 池上 真澄
  作曲 佐藤 茂助
一、明くれど閉ざす雲暗く 薄(すすき)かるかやそよが
せて嵐はさっと吹くき渡り 万馬いななく声高し
二、銃(つつ)雷(いかずち)ととどろけば 太刀稲妻ときらめきつ天下分け目のたたかいは 今や開けぬ関ヶ原
三、石田しきりに促せど 更に動かぬ島津勢
 占むる小池の陣営に 鉄甲堅くよろうなり
四、名だたる敵の井伊本多 霧にまぎれて寄せ来るや我が晶巌ら待ち伏せて 縦横無尽にかけ散らす
五、東軍威望の恃みあり 西軍恩義によりて立つ二十
余万の総勢の 勝敗何れに決戦や
六、戦い今やたけなわの 折しも醜(しこ)の小早川、松尾山をかけくだり 刃(やいば)返すぞ恨めしき
七、前に後ろに支えかね 大勢すでに崩るれど精鋭一
千われひとり 猛虎負嵎(もうこふぐう)の威を振るう
八、蹴立てて駒の行くところ 踏みしだかれぬ草もなく西軍ためにきおい来て なびくや敵の旗の色
九、家康いたくあらだちて 自ら雌雄を決っせんと関東
勢を打ちこぞり 雲霞の如く攻めかかる
十、かかれ進めと維新公 耳をつんざく雄叫びに
 勇隼人の切先の 水もたまらぬ鋭さよ
十一、払えば叉も寄せ来たり 寄すれば叉も切りまくり
剛は鬼神を挫けども 我の寡勢を如何にせん
十二、運命何れ生か死か ここを先途と鞭ふるい
 奮迅敵の中堅に 活路(みち)を求めてかけ込ます
十三、譜代恩顧の将卒ら 国家(くに)の存亡この時と
鎬(しのぎ)をけずる鬨(とき)の声 天にとどろき地にふ
るう
十四、篠を束(つか)ねて降る雨に 横たう屍湧く血潮、風なまぐさく吹き巻きて 修羅の巷のそれなれや
十五、薙げど仆(たお)せど敵兵の 重なり来たる烏頭
坂、たばしる矢玉音凄く 危機は刻々迫るなり
十六、骸も染みて猩々緋 御盾となりし豊久を
 見るや敵兵且つ勇み 群り寄する足速し
十七、賜いし御旗ふりかざし 阿多長寿院駈け入りて
兵庫入道最期ぞと 名乗る雄々しき老いの果て
十八、欺かれたる悔しさに 息をもつかず忠吉ら
 くつわ並べて追い来しが 返す我が余威また猛し
十九、牧田川添いひと筋に 行く行く敵をけちらして駒
野峠の夜にまぎれ 伊勢路さしてぞおち給う
二十、献策遂に容れられず 六十余年の生涯に
 始めて不覚をとらしたる 公の無念や嗚呼如何に
二十一、興亡すべて夢なれど 敵に背(そびら)を見せ
ざりし壮烈無比の薩摩武士 誉は永久に匂うなり
二十二、無心の蔓草(つるくさ)今もなお 勇士の血潮に茂るらん仰げば月色縹渺(ひょうびょう)と うたた往時のなつかしや

 先ほども申し上げましたが「妙円寺詣り」は薩摩隼人の心の源流となる郷土行事です。
 正規の連では、鎧兜の戦国装束にてこの「妙円寺詣りの歌」を最終目的地「徳重神社」まで延々と歌い続けての行軍となります。メロディーは和音階のきわめてシンプルなもので全部で
22番まであります。妙円寺詣りの歌は関ヶ原の戦い及び島津軍の壮絶な退却戦の模様を歌ったものです。




 




 この妙円寺は島津義弘公の菩提寺であり、もとは徳重神社社地にありました。廃仏毀釈令により、現在の徳重神社となり妙円寺自体は神社から100メートルの地に移されました。
 行軍による終着点が徳重神社であり「徳重神社詣り」のはずですが戦国時代から脈々と続く伝統行事「妙円寺詣り」としてその名残を残しています。

 








神社参拝記